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Y.U SURFBOARDS 代表/
植田義則氏インタビュー Vol.1
~夢への距離~

サーフィンの神様ジェリー・ロペスに認められ世界的なシェイパーとなった植田義則氏。今までに、元ASPワールドチャンピオンであるケリー・スレーター (Kelly Slater)、パイプラインで有名なジェイミー・オブライエン (Jamie O’Brien) などのプロサーファーからのオーダー製作、そして、チームライダーには、Tokyo 2020に最有力候補の松田詩野、昨年 (2019年)日本のサーキット、JPSAでグランドチャンピオンとなった河谷佐助、また同じくJPSAグランドチャンピオンの経験を持つ仲村拓久未や、ロングボードなど様々なスタイル・ボードをこなす、高貫佑麻等、国内外の多くのプロサーファー、ライダーからサーフボード制作を任され、日本をリードして来たマエストロに、サーフィンやサーフボード制作への想い、これまでの道のり、盟友ジェリーロペスへの想い等、話を聞いた。

Shino Matsuda. Photo by Naoya Kimoto

少年時代にアメリカンカルチャーへの憧れの中でサーフィンと出会った植田義則氏。好きなことで生きていく道を探し、シェイパーとして歩み始めた。20歳の時(1975年)には全日本サーフィン選手権大会で優勝を果たした。ライトニングボルトの日本での制作を任された後、自身のサーフボードブランドY.Uを設立。またジェリー・ロペスサーフボードの制作も任される等、日本の第一人者と言える存在だ。

<植田義則氏 選手時代の実績>
1975年 全日本サーフィン選手権大会 優勝

植田義則氏
photo by Moriyasu Aoki
植田義則氏
photo by Moriyasu Aoki

(インタビューはここから)

60年~70年代のアメリカンカルチャー

[AO] 植田さんとサーフィンとの関わりについて教えてください。

[Y.U SURFBOARDS、以下YU] サーフィンは今オリンピックの競技としても決まり、本当のスポーツとしての道を完全な形で歩み始めてはいるけれども、我々が始めた頃、僕らが10代の頃のサーフィンのイメージっていうのは、スポーツとして確立していたということではなくて、僕ら60年代後半から70年代にかけて日本ではいわゆるカルチャーそのものがアメリカに憧れをもつ若者が続出したような時代だよね。アメリカではベトナム戦争まっ盛りのような時代だけれども、いわゆるファッションも含め、当時のヒッピームーブメントが起き、カリフォルニアやサンフランシスコを中心とした若者が、ラブ&ピースを訴え、そしてより自然と親しむ、ナチュラルなムーブメントが60年代にあって、我々日本側にいた子供達にすれば、サーフィン自体が当時のムーブメントや空気ともオーバーラップしてたよね。

[AO]  私は生まれてませんでしたが、当時がそういう時代で有ったことを、「1969」などの映画で知りました。

[YU]  もう一つでいえば音楽もそうだよね。例えば、我々の世代からすれば、ビートルズがイギリスから始まってはいたけれど、それからクリームが出てきたり、ジミ・ヘンドリックスが出てきたり。サウンドのメインストリームもイギリスからだんだんアメリカへと動いて、ニールヤング、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、そしてウッドストックが象徴的な時代ですよ。

[AO] あの頃のカルチャーや音楽は、今から見て聴いてもとても魅力的なものですよね。特別な時代だったんだなと思います。

植田義則氏
photo by Yasuma Miura

重なり合うサーフィンと音楽

[YU] ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンだとか、その辺りの音楽のムーブメントはヒッピームーブメントともオーバーラップしてたし、サーフィンもそれらのムーブメントや音楽の流れにもオーバーラップしてた。実際有名なミュージシャンとサーファーとの関係も有ったようです。

[AO] 当時、サーファーとミュージシャンにも交流が有ったんですね。

[YU] そうですね、もちろん今でもジャック・ジョンソン、ドノバン、ランドン・マクナマラのように、ミュージシャンサーファーも沢山いますけど。
植田義則氏
photo by Yasuma Miura
植田義則氏
photo by Yasuma Miura
植田義則氏
photo by Yasuma Miura

アメリカン・カルチャーへの憧れ

[YU]  それこそ情報といえば、その時代サーファーマガジンはまだ銀座とか青山通りの洋書屋へ行かないと手に入らなかった。サーファーマガジンも始まりの頃だよ。そこへ行ってアメリカのサーファーマガジンを手にして、そこで見る写真一ページずつが、子供達は英語も分からないけれど、その時、そこで吸収する雰囲気とかが全てだったよね。後、テレビでは、(夜の)11時から、高崎一郎さんっていう当時は有名なディスクジョッキーで、サーフビートっていう30分番組をやってたり。向こう(アメリカ)のサウンドに乗っけて、向こうで映像が撮られている有名なグレッグ・ノールのワイメアのシーンとか、デビッド・ヌヒワのノーズライディングのシーンとか、今でもいわゆる核になっているような歴史を生んできたシーンの映像を、そのころ流行っていたサウンドに乗せて、そのテレビ番組は流したりしてた。

[AO] 当時はサーフィンの映像自体が、珍しく貴重だったんですね。

[YU]   (夜の)11時にならないと見られないんだけど、子供だから眠くって、なかなかその時間まで起きてられなくて、毎回欠かさず見てたわけじゃないんだけど。そんなアメリカに関することが日本のテレビでも始まってきたりしたんだよ。アメリカのドラマ「パパ大好き」とか「パパは何でも知っている」「奥様は魔女」「ちびっこギャング」、みんなアメリカのそういうホームドラマっていうのもテレビ番組で見られるようになって、僕ら子供の頃に沢山目にして、向こう(アメリカ)は10代の頃から車運転してデートとか言って、まだ日本じゃその頃「デート」なんて言葉聞くだけで恥ずかしいような時代でね。だから我々子供にとってはアメリカは凄いなぁっていう風に感じたんだよ。戦後まだたいした時間も経過してないから、より強烈にアメリカンカルチャーや西洋文化全てに憧れを持ってたしね。
植田義則氏と植田梨生氏
photo by Yasuma Miura
植田義則氏と植田梨生氏
photo by Yasuma Miura
[YU] そんな中でも、サーフィンはそれこそ音楽ともオーバーラップして、また一種独特のスタイルも生み出しててね。サーファーマガジンを見れば、当時ファッションでもロングヘアーってのもない時代から、60年代にデッキシューズとトランクスとTシャツとっていうファッションを見て、サーファーのカリフォルニアっぽさっていうのを、子供の時に凄く感じて。当時は洋服一枚、ブルージーンズ一枚なかなか向こうのものが買える時代じゃないわけ。知り合いにベース(米軍基地)に出入りできる人がいればそういった人に頼んで買ってもらうとかっていうような時代ですよ。ファッション一つとってもね。今じゃ何気ない格好でも、昔は日本では何にも売ってないわけだから。アメ横とか行けばたまにはそういうものも買えたりしたかもしれないけど。

[AO]  今では当たり前に見られるファッションも、当時はとてもインパクトが有ったんですね。

[YU]  そういう音楽やファッション、ムーブメントとかも含めて、全てが憧れであって、言うならカッコいいなってやつだったわけですよ。とにかくカッコいいなと。僕ら、湘南でそういう子供の時を過ごしていたので、我々の一回り上のお兄さん達が、そういうサーフィンや雰囲気のシーンを脇で見ていたりしたわけ。僕ら子供たちは、とてもじゃないけどサーフボードなんてものは買えないだろうと思ったし、だからこそ憧れだったんだね。その辺から、いわゆる湘南カルチャーも始まってきたわけ。湘南の遊び文化といえば、石原裕次郎とかから始まってヨットがあるけど。湘南だからセーリングと若者のカルチャーだよね。
植田義則氏
photo by Yasuma Miura
植田義則氏
photo by Yasuma Miura
植田義則氏
photo by Yasuma Miura
植田義則氏
photo by Yasuma Miura
植田義則氏
photo by Yasuma Miura

[AO]  太陽の季節ですね。それがアメリカンカルチャーと同じような時代だったんですか?

[YU]  それ(石原裕次郎の時代)がちょい過ぎ始めた頃ね。裕次郎は僕と20歳位離れている。僕らが子供の時には、一昔前の湘南カルチャーで、若者の中で一番遊びに長けてたんだよね。分かりやすく言えばその辺が始まりだったんでしょう。僕ら子供の時、なかなかアメリカのサーフボードなんて買えるわけないって時代だったけど、お坊ちゃまは、たまに家族旅行で、海外にハワイなんか行って、サーフボード買って帰って来たりとか。

[AO] 一部の裕福な家庭のお子さん方が、サーフボードを持てる時代だったんですね。

湘南の遊びのカルチャー

[YU]  後は、そういう湘南のお坊ちゃんか、地元のローカルな人達と接点もあり、サーフボードを借りたりしながら手に取って始まっていくわけなんだけども。そこにはやっぱりサーファーっていうカテゴリーの前に、さっきから話しているように、湘南の遊びのカルチャーを代表するような人達、サーフィンも早かったってことだよね。一早くサーフィンをやって、外人とも友達になり、外人がそこに板を預けて帰る。「See you next week」、なんて言って預けていくような友達になったりして。僕の親しかった大先輩はずいぶん前に亡くなっちゃってるんだけど、まぁ、いち早く独学でジャズピアノも弾けばサーフィンもやればウィンドサーフィンもこなし、プラモデルの飛行機も飛ばす、ヘリコプターも飛ばしたりしてたわけ。

[YU] 大好きな人だったんだけど、昔からあんまりそういうことをして遊んでる人がいない時代からそういうことして遊んでたんだよ。遊びは何やらせたって上手くて、そういう人たちが僕らの大先輩で湘南には姿があったから、いろんな形で憧れたし、テレビ、映画とかでもサーフィンシーンってのがどんどん挟まれるようにもなってきたわけ。「やっべー、これカリフォルニアのサーフィンのシーンだ」みたいなのが普通の映画のちょっとしたシーンで出てきたりさ。だから、どんどんどんどん、よりアメリカを感じたし憧れたよね。

だからなるほどサーファーなんだな

[YU] その頃に俺の友達で中一からサーフィン始めてた友人がいて、そいつもちょっと恵まれてた家庭だったから、「誕生日プレゼントで、板買ってもらったんだ」なんて言って、俺よりちょっと早く始めててね。

だけど、「やべーぞ、そのグループに入っちゃったら、先輩達にからかわれちゃってかっこ悪いでしょ」みたいなさ、子供だからそんなことが気になっちゃうくらい、一つの敷居があったよね。それこそサーファーというね、一種独特のグループだったよね。世の中にまだサーファーって言葉が聞かれないような時代にね。だけどそのサーファーのグループには、個性のある面白い人達がいっぱいいたし、ふざけてるのがね。だから、なるほどサーファーなんだな、そして、だからすでにサーフィンやってんだなってのが、全部そこでオーバーラップするんだけれども。

サーフィンを始めたきっかけ

[AO] 最初始められたきっかけとか乗られたきっかけっていうのは、どのようなものだったんですか?

[YU]  その友達が持ってたから、やってたから、それ脇で見てたからだよね。脇で見ててそいつがサーフィンをやりに行く時について行ったりすると、ロングボード積んだ外人が来たり、そういうのがブシューっと湘南の鵠沼あたりに入って行ってノーズライディングやったりしてんの。始まりの話が長くなりましたけども、それくらい単なるスポーツっていうくくりのね、今なら、じゃあゴルフやろうかサーフィンやろうかスキーやろうかって、チョイスは同じスポーツのカテゴリーだけども、当時はサーフィンは別だったよね。スケートボードだって、サーフィンを陸でなんとか同じような動きができないかっていって、サーファーが考案して始まったんだし。

誰こそが一番スタイリッシュか

[AO] スポーツよりもファッションに近い感じだったんですかね。

[YU]  そう。サーファーマガジンでは、だんだんスケートボードのシーンも一ページ、ワンカット、それこそターンのスタイルだとか、それがだんだんロングヘアーが出て来たりした時代、カリフォルニアの子供がロングヘアーでスタイルよくピーっとカービングでターンしたりすると、「やっべ、カッコいいじゃん」って、なんでもカッコいいかどうかだよね。プロサーフィンってものが確立し年も流れ、だからこそ今ではみんな数字で仕切られるんだけど、当時の価値観は、 要は誰が一番かみたいな話よ。自分勝手なね。

レーティングってものもあり、賞金も誰が稼いだかってのもあり、だからそうなると順列が付き、一番こそが一番って話だけど。昔はそんなプロサーフィンってものが存在してなかったから、誰こそがかっこいいかっていうね。「俺はAっていうサーファーが好きよ」、「ばか、Bの方がかっこいいじゃん」、「そんなことないよ、絶対Aのほうが上手くってこう」だとかね。みんなそれぞれ単なる自分のカッコいいサーファーだというのが気持ちに有るだけで、別にそれがイコールチャンピオンでもなくってね。誰こそが一番スタイリッシュかみたいな、そんなだったですよ。それくらい今のサーフィンとはサーフィンってものがとっかかりはまず違ってたってことですよ。だから僕らは今でも、なんとなくセンター(心の中心)にはそれがあるってだけですよ。なんとなく。

ロングボードリバイバル

[AO] 最近またクラシックのロングボードがリバイバルになって来たりして、それは、やっぱり昔のスタイルが一番、カッコ良さが一番っていう、そこがまた少し見直されてきているんでしょうか。

[YU] もちろん、ショートのトッププロ達のサイボーグのようなムーブが凄い格好良いのは、言うまでも無いが、まぁ、ロングボードリバイバルは90年代なんですよ。どういうことでリバイバルになったかっていうのは、サーフボードの進化っていうのが、真っ直ぐ、それこそプロサーフィンであったり、ハイパフォーマンスサーフィンっていうところに向かっての道具、この道具の進化が徐々にずっと来ていたんです。そして、ある時点で、その進化がかなり良いものを作れる段階に到達したんです。そうすると当時のフォームを使って、当時のラミネーションで、後、どういうものが動きやすいんだ、どういったものがどうしやすいんだ、っていうのを理解したその当時となっては、もっとコントロール性の良い、楽なロングボードも出来るだろうっていうのでロングボードがリバイバルした。
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura
Y.U シェイピング作業
photo by Yasuma Miura

それがロングボードかい?

[YU] で、ロングボードでもリッピングして、長いものなんだけど、ハイパフォーマンスに乗るのがまずは流行ったの。リバイバル。そういう動きが来たんだけれど、「ちょっと待った」と。「ロングボードだろ」と。そこでジョエルの出現です。その頃ジョエルは子供で、お父さんもサーファーだし、カリフォルニアのロングボードシーンてのは、もろチビの頃からなんとなく親しんでる。

だから、そこでジョエル・チューダーなんかは、「だから待てよ」と。「乗りやすくなって、そういうこと(ハイパフォーマンスな乗り方)しやすいからって言って、みんながそれやんのが、それがロングボードかい?」っていう疑問だよね。「ロングボード持ち出した時くらいは、クラシックにアプローチして、スタイリッシュに、やっぱりそれこそがロングボードの良いところじゃないの?」っていうような提案をするような形でジョエルがやってみせ、そしてブームをまた呼び、クラシックな方向へとまた来た。そして今クラシックなそのピークも去り、結局またロングボードの流行も終わり70年代のショートボードの時代が来たように、だからといって、70’sのようにロングボードが消えたんでは無くて、クラシックラインに深くハマるニュージェネレーションは沢山生まれている。

お前はそれカッコいいけど俺はこっちよ

[YU] 恐らく2000年近辺くらいが流行ってたのかな。で、今流行ってないんじゃなくて、遊び方が自分に合った遊び方、環境、そして自分のスタイルに合った遊び方にみんながなった。流行りとか、「今時代がこれだぜ」みたいのが無いの。みんな「No,No,No、My Styleはこれよ」っていうね。「まぁお前はそれカッコいいけど俺はこっちよ」って、「いやいやそんなの何よ、俺はこっちのほうが乗りやすいでしょ」っていう、みんなスタイルがいろいろになって、だから道具も全てのいろんな物が揃う時代になったということだよね。

[AO] だんだん価値観が多様化して、みんながそれぞれ自分の好きなことをやれるようになったっていうことですかね。

[YU]  そうだよね。価値観はさっきも言ったようにプロサーファーで数字で表す価値だけじゃないっていうね。それで一回評価されたけれども、でもサーフィンなんだもん、そういうことだけじゃないぜっていう時代に、またちょっとそこのドアも開き始めたってことです。最初のころ評価してたような部分をね。

好きなことでちゃんと生きていく

[AO] 学校も辞められて、サーフィンの世界に入られたとのことですが、そこも大変な決断でしたね。

[YU]  まぁ大した決断っていうより、こういうことですよね。まぁ勉強も好きじゃない、どうしようもない子供だったっていうベースがそこにあり、本当は僕は犬が好きだったり動物が好きで、なんとなく大人になったらそういう道で生きて行くかなって子供の時思ったくらい。

[AO] 獣医さんとかになりたかったんですか?

[YU] 獣医さんになれたかどうかはわかんないけど、なにしろ動物好きだったしね。あと庭で一人で遊んだりしてんのが好きだったし。それはアリの巣なんかほじくって、すげえ穴掘っちゃったりとか、そういうことが好きだったもんですから。なんていうんだろう、そういう子供が高校に入り、学校もちょっと湘南と雰囲気も違うのね。あと遠い、1時間半から2時間位かかっちゃうの。 だからこんなの行ってらんない、やだなぁって辞めたくなっちゃって。それで辞めて、辞める以上今度はちゃんと生きてく心配をして、やっぱり子供ながらに、学校辞めたんだから好きなことでちゃんと生きていくしかねぇなと。それでこの職に就いたんですよ。

この仕事なら波乗りが出来る

[YU] だけど、まだこれで食えるような時代じゃなかった。湘南でも、そういうサーフボードクラフトの始まりの歴史は、旗が振られたけど、まだまだ、それで食えるとか、将来どうなるなんて事は何も見えない。ただはっきりしてたことは、この仕事なら波乗りが出来る。サーフィンは波があるときしか出来ないじゃないですか。なのに波があるときに出来なかったら、結局ずーっと出来ないようなもんじゃん。この仕事をしていれば公明正大な理由で海に行ける。誰からも指さされない。例えばお店から電話あっても、「今波乗り行ってます」って言っても、「あぁそうですか」で済むじゃないですか。これ、普通の仕事やってたら、「サーフィン行っちゃってます」なんて言ったら、「なんですかお宅の会社」、なんて怒られちゃうけど。まぁだからそれがこの仕事してれば波乗りができる、うん。

それと同時にモノ作りは好きな方だったですよ。動物も好きだったけど、絵を描いたり、そういうことが好きだったから、それこそサーファーマガジンとかで目にするシェイパーのシーンとか、カッコいいなぁ、波乗りして自分で感じたもの自分で作るなんて。そんなことで生きていけやしないけど、でも今はそれがやりたいみたいな。それでこの道に入って。だから17歳の時にこの道に入るって決めて、学校は高2で辞めちゃったんだよ。

Y.U SURFBOARDS 工場内観
photo by Yasuma Miura
Y.U SURFBOARDS 工場内観
photo by Yasuma Miura
Y.U SURFBOARDS 工場内観
photo by Yasuma Miura
Y.U SURFBOARDS 工場内観
photo by Yasuma Miura

何やったって先が見えてんのなんてない

[AO] クリエーターの資質がおありになったんですかね。

[YU] まぁ、そんなことは無いですけど。確かに、絵を描いたり、美術って部分では一番得意なジャンルだった。学校の成績も美術だけは一番高くくれて、美術の先生も、特別な先生紹介するから、お前美大とか専門のそういうところ(美術関係)行けってまで言ってくれた先生もいたんだけど。高校も辞めて、自分の好きなことで、おまけにカッコいいなぁと思えることで、この仕事についてりゃ波乗りもできる。見えないのは先が食えるかどうかってことなんだけども、まだ10代だし行くっきゃない、こりゃね。これだけの理由が整って。

[AO] 先が見えないのは、今の時代でも大きな会社とかに入ったとしても同じですよね。

[YU] そうです、それは途中途中で大人がよく言ってた。そりゃ何をやったって先が見えてんのなんてないんだよってみんな大人は言ってた。
Y.U SURFBOARDS チーム
photo by Yasuma Miura

( Vol.2へ続く)

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